新しき幕開け
工事中のマンションの鉄骨が、坂から望む富士山の左側稜線を超えたのは、2000年4月9日のことである。鉄骨はその日のうちに一気に最上階の13階まで組みあがった。地域住民の注視と度重なるメディアの報道のなかで、以後も工事は滞ることなく進み、建物は半年後の11月20日に竣工した。行政もなす術はなかった。
こともあろうに、21世紀を迎えようとする最期の年に、地域のみならず東京にとって最もかけがえのない風景がひとつ大きく損なわれてしまった。しかし山頂と右側稜線はまだ残されている。ここから新しい幕開けとなるのだろうか。この風景の保全に関わる者として、これまでの経過と展望について述べようと思う。
日暮らしの里の光景
「景色や草木を眺めあかして日が暮るるを知らず」というほどの美しい風景に由来する日暮里諏方台は、東京・荒川区の西端に位置している。地形上、武蔵野台地のはずれの屋線にあたり、「東に筑波、西に富士」という江戸からの眺望名所であった。当時の「月見寺」「雪見寺」「花見寺」が今も残り、鎮守である諏方神社の境内からは筑波こそ見えなくなったものの、JRの線路越しにまだパノラマ景が広がっている。振り返れば谷中、根津、干駄木、田端といった地域が間近である。
神社を出るとすぐ脇に石畳の小さな坂があり、ここが東京都心部16カ所の富士見坂において、唯一富士山の全貌が望める富士見坂だった。地上からということでも都心部最後の富士山眺望の場所であるが、坂の向こうは住宅が並び、本郷台地に続いている。
富士は、冬場がよく見える。ことに11月中句と1月末の年に2度、ちょうど山頂に日が沈むときがあり、実際に立ち会うと思いがけず大きな太陽と富士の取り合わせに圧倒される。そして町なかからこのような光景を眺められることが、いかに貴重なことかを知らされるのである。
景観と地形への関心から、東京の眺望全般について調べてはいたものの、日暮里富士見坂に絞ってその保全を考えるようになったのは、富士山の持つ象徴的価値、坂の希少性に加え、上記の体験に拠るところが大きい。
しかし保全の現実的な可能性を感じたのは、現地調査で小路を見つけたときである。「すずらん通り」と呼ばれる、ちょうど新宿のゴールデン街のような飲食店街が、坂からの狭いヴィスタライン上に掛かっている。地権が厄介でバブル期の地上げが起きておらず、今後もしばらく高層は建ちそうもない。あと何ヵ所か主要なポイントを押さえれば保全できるのではないか。ヴィスタラインと眺望阻害高さを明らかにした調査結果はゼミ生の修士論文にまとめられ、それをもとにお二人の先生の賛同を得て「富士見坂眺望研究会」を立ち上げ、報告書(注1)を作成した。
ところが、この報告書完成とほぼ期を一にして、冒頭の工事が着手されていたのである。
建設工事と「守る会」
工事は坂から1.3km先の文京区本郷通り沿いで行われていた。ワンルームの分譲マンションである。
研究会のメンパーには関係3区(荒川・台東・文京)の行政マンも加わっており、ヴィスタラインに関わる事前の情報は察知できたはずが、面積が狭いため部署間の連絡網に乗らなかった。また、われわれ研究者のほうも報告書締切りに追われて、一時現地から足が遠のき、それだけ知るのが遅れた。1999年の11月、ここからほぼ1年間のてんやわんやが繰り広げられる。地元住民を中心に「日暮里富士見坂を守る会」が結成され、研究会は資料提供など、脇からサポートするかたちとなった。
建築主との階高をめぐる交渉、議員・議会への依頼打診、行政や関係機関への要望、シンポジウム・展示の開催、署名集め、パンフレット・チラシの作成と配布、マスコミヘの取材依頼などなど、気づくのが遅れたとはいえ、「守る会」はあらゆる手だてを尽くして精力的に活動した。今改めて会のホーム・ページ経過報告を見ると(注2)、おそらく通常の4、5年分にも匹敵する密度で動いたのではないかと考えられる。取り返しがつかないという危機感はそれほど高まっていた。
結果的には何らの変更もなく、当初の計画通り建物は完成した。だが、ここから見る富士山の姿はかなりの部分がまだ残されており、それは守るに値する大きさである。一般の方からの賛同も相変わらず寄せられている。一時「守る会」の落胆は甚だしかったが、着工後の物言いということもあり、竣工するまでには多少なりとも心構えはできていた。現在は今後に向けて長期的な展望のもと、態勢を整えているところである。
高層ビルからの眺め・地上からの眺め
今回の問題に関してよく出てきた議論に、富士山は高層ビル(建物)からいくらでも見えるからいいではないかという意見のがある。これはそのまま、坂の上からの眺めはなくなっても仕方ないという話につながるので、注意を要する。そこでここで整理しておきたい。
両者は多くの人が漠然とは感じているように、風景としてまったく性格を異にしている。すなわち、建物は私的所有物であることが多く、気軽に立ち入ることはできない。これは公共的な建物であっても管理上の問題から同様の場合が多い。子供が遊びながら、あるいは老人が散歩の折、ふと立ち止まって眺め入るというような日常的なものではない。
また、エレべーターによって眺望点まで運ばれるというプロセスは、地上から遠く切り離された感覚を与え、上に上がってもガラス等の遮断により、風や音は聞こえずどこに居るのかわからないというような抽象的な印象になりがちである。実際そこからの景色はよく似ている。
さらに建物は、一定の時期を経て更新の際、敷地や用途、高さ等が大幅に変化することがほとんどで、そこからの風景自体が永続性・恒常性を欠いている。つまり建物からの眺めは、根本的にその場所(地域)に定着することはなく、どれほど時が経過しても、人々に共有されるような日常的に安定した風景=原風景とはなり得ないのである。そして、最終的にビルからの眺望は、必ず何らかの意味で他からの眺望を奪って=破壊して成立していることを銘記しておくべきだろう。
問題の在り処
「守る会」、建築主、行政、議会の相互には多数の文書が交わされたが、いずれも現状での困難さを迫認する類のものがほとんどで、実効性のあるものは見当たらない。
ただし、文京区長と荒川区議会議長のあいだで交わされた富士見坂に関する文書(注3)は、富士見坂について行政間の枠を超えて協力しましょうという内容で、理念的ではあるがひとつの成果と考えられる。何よりも荒川区に富士見坂があり、主な建設現場が文京区にあることが状況をいっそう困難にしているのであるから。
さまざまな話合いの席で特徴的だったことは、誰もができれば富士山を残したいと心情的には願っていることだった。そのため当面の立場を忘れて共に悩んでしまうといった場面がしばしば見られた。
荒川区はその都市計画マスタープランに「富士見坂の眺望の確保」とうたい、文京区は景観基本計画に「地形が誘起する風景の魅力を高める」と述べる。そして東京都は都市計画マスタープランに「富士山を再び東京のランドマークとして都市景観の中に取り戻してゆく方法として、富士山の見える公園、緑地、富士山を望む広い道路、坂道や展望台など、多様な眺望点を整備することが考えられる」と記し、かつ1996年度の東京都都市景観コンテストで、日暮里富士見坂からの富士山を“この景観をいつまでも賞’に選んでいる。しかしそれ以上には踏み込めない。逆に都景観条例からは眺望の視点は後退している。制度的整備がなされていない中で、どのようなことが可能だろうか。
研究会の当初のねらいはこうしたことを予め念頭にいれて、ともかくひとつの既成的事例をつくることにあったが、今回は叶わなかった。
今後は、さしあたり長期的には都景観審議会などを通じて景観条例に何らかのかたちで富士見坂を組み入れるような形にすること、目先の問題としては、ヴィスタラインに掛かる地権者への情報提示、説明を行うこと、などが考えられる。
その後の調査によれば、当面該当する地権者は、坂から1−2km以内の幹線道路沿い、わずか数人であることが判明している。東京から富士山まで100kmあるが、その眺望保全に直接関わる地権者がこの数しかないのは驚きである。しかし地権者の資産保全の問題があり、ことは容易ではない。将来的に景観条例に盛られたとしてもお願いの域は出ないことも承知しておかなくてはならない。また、これらと並行してこの問題が広く認識され世論が高まることが不可欠である。
高層化と東京の都市デザイン
富士見坂は東京の都市デザインの在り方に新たな問題を投げかけた。今ビルが建ったとしても、20年後、30年後をめざして在るべき景観の姿を求めてゆこうとする動きが市民の間に生まれているのである。行政はこれに応えてゆかなくてはならない。
これは東京の景観を全体としてどのように捉えるかという長期的ヴィジョンにも関わってくる。
景観面で最も影響の大きい高さについて言えば、1963年の容積制移行後、それまでの高さ制限が外れ、急激に高層化は進んだが、それは今までにわれわれが体験したことのない変化である。しかし居住環境との関連で、この高層化に対するイメージが共有ないしは合意されているとは言い難い。高層化が抱えるマイナス面は検証されているのか。超高層の業務ビルやホテル、マンションなどが次々と林立してゆく光景は本当に受け入れられているのだろうか。ことにマンションが景観的・歴史的に魅力ある地域を狙って立地しながら、スケールアウトした高さによって、地域を壊す方向で建設されるケースが目に付く。
世紀が変っても、前世紀からの慣性力は続いている。風景はまだ行方が知れない。