朝鮮戦争による特需景気と、続く高度成長は戦後の東京をよみがえらせた。 一方で、1964年(昭和39年)の東京オリンピックをきっかけとする都市開発によって、東京の景観は大きく変化した。
公害による居住環境の悪化で、富士山の見える日はほとんどなかったというものの、東京の富士見坂からの眺望が次々に失われていった。
江戸時代から呼び名のあったもの、明治時代に出来たものを合わせて、 山手線沿線部および内部に位置する「富士見坂」として、次の16の坂を挙げることができる。
所在は現在の住所、富士山方向は真西からの西回り角度
道幅、坂上の標高、谷の最低標高、高低差の単位はm
No. | 名称(別称) | 所在 | 下る方向 | 傾斜度 | 道幅 | 富士山方向 | 坂上の標高 | 谷の最低標高 | 高低差 |
1 | 富士見坂(花見坂,妙隆寺坂) | 荒川区西日暮里3丁目町内7と8の境 | 東北東から西南西 | 7 | 3.2 | 23 | 21 | 6 | 15 |
2 | 富士見坂 | 文京区本郷2丁目町内2と3の境 | 北から南 | 3.5 | 6.4 | 21.5 | 22 | 4 | 18 |
3 | 富士見坂(御殿坂,御殿表坂,大坂) | 文京区白山2丁目町内と小石川植物園の境 | 北東から南西 | 4.5 | 5.4 | 23 | 21 | 8 | 13 |
4 | 富士坂(藤坂,禿坂) | 文京区小日向4丁目町内3と4の境 | 東北東から西南西 | 10.8 | 3.9 | 23 | 26 | 20 | 6 |
5 | 富士坂(不動坂) | 文京区大塚2丁目と5丁目の境(不忍通り) | 東北東から西南西 | 4.3 | 20 | 23.5 | 27 | 14 | 13 |
6 | 富士見坂(日無坂,東坂) | 豊島区高田1丁目町内23と文京区目白台1丁目の境 | 北北東から南南西 | 13 | 4.3 | 23.5 | 29 | 10 | 19 |
7 | 富士見坂 | 千代田区神田小川町3丁目町内10と14の境 | 東北東から西南西 | 2 | 7.7 | 21.5 | 10 | 2 | 8 |
8 | 富士見坂 | 千代田区九段北3丁目1と富士見2丁目15の境 | 東北東から西南西 | 3 | 5.6 | 21.5 | 26 | 13 | 13 |
9 | 富士見坂(水坂) | 千代田区永田町2丁目と紀尾井町の境 | 東から西 | 3.5 | 38 | 20.5 | 29 | 10 | 19 |
10 | 富士見坂(宮益坂) | 渋谷区渋谷1丁目と2丁目の境 | 東から西 | 2.5 | 21 | 20 | 34 | 15 | 19 |
11 | 富士見坂(南部坂,南郭坂) | 渋谷区東2丁目と3丁目の境 | 東北東から西南西 | 3.8 | 8.3 | 19.5 | 27 | 14 | 13 |
12 | 富士見坂(笄坂,大横丁坂) | 港区西麻布3丁目町内16と17の境 | 東から西 | 3.8 | 5.5 | 19.5 | 32 | 14 | 18 |
13 | 富士見坂(青木坂) | 港区南麻布4丁目町内10と11の境 | 東北から西南 | 8.8 | 3.4 | 19 | 24 | 10 | 14 |
14 | 新富士見坂 | 港区南麻布4丁目町内5と10の境 | 東から西 | 12 | 5.7 | 19 | 24 | 10 | 14 |
15 | 富士見坂 | 港区芝公園4丁目3(東京タワー西向かい) | 北から南 | 1.2 | 19.5 | 21 | 5 | 16 | |
16 | 富士見坂 | 目黒区目黒1丁目町内1と2の境 | 東北東から西南西 | 5.7 | 6 | 18.5 | 29 | 6 | 23 |
表作成 富士見坂眺望研究会
昭和44年に地下鉄千代田線が開通し、西日暮里駅(JRと乗り換え)が出来たことにより、諏訪台の周辺は急速に開発されていく。
駅前の高層化が進んだのは昭和58年以降、いわゆるバブルの頃である。現在の諏方神社からは、崖下を通る山手線等により、横方向の見通しは利くものの、正面は線路を挟んで間近にビルが建ち並んでいる。
不忍通りの高層化も、その地下を通る千代田線によって沿道地域のポテンシャルが上がり、開発の対象となったため同様に進んだ。富士見坂からの富士山への眺望が脅かされるようになるのも、その頃からである。
日暮里の富士見坂は1986年 (昭和61年) にNHKで取り上げられるが、当時はまだ富士見坂から見える風景の中にビルの姿はなかった。
From Nippori Fujimizaka in about 1990 (Photo by Mr. Tadashi Ishikawa)
'90年頃の日暮里富士見坂の眺め (石川 正 氏 撮影)
不忍通りの高層化は都心により近い根津方面から始まり、富士見坂の坂下に当たる千駄木周辺には開発の波がやや遅れて届いている。前面道路との関係で、実際に高層ビルが建てられるのは、不忍通りに沿った皮一枚であるが、その裏には今だに小さな商店や小規模住宅、長屋等が多く残っている。その屋根ごしに突然立ち上がるビルは、オフィスかマンションがほとんどで、地域とのつながりをあまり持たないまま存続するケースが多い。
そうした危うい情況の中で、 日暮里富士見坂は、1996年度には「東京都都市景観コンテスト」において、"この景観をいつまでも賞" に選ばれた。
コンテストにおける紹介文 | |||
|
| ||
The contest 1996 awarded photo コンテスト出品の写真 |
江戸、東京と受け継がれてきた16の富士見坂からは、護国寺富士見坂からの部分的眺望と日暮里富士見坂からの眺望とを残して、すべての眺望が失われてしまった。
日暮里富士見坂からは、21世紀になった現在も奇跡的に残された富士山を見ることができる。この風景は私達が後世に伝えるべき風景遺産として存在している。