秀吉から関東へ転封を命ぜられた家康が江戸を選んだ理由の一つに富士山が見えることがあった。江戸に入った家康は江戸城を改修した。江戸城本丸には天守閣が聳え、江戸の町からは富士山と天守閣が並んで見えて将軍家の威光を世に示していた。天守閣は1657年(明暦3年)に振袖火事にて消滅し、その後は再建されなかった。

家康は江戸の町の整備に取りかかり、現在の神田・日本橋・京橋・銀座にあたるところに下町を作り、碁盤目状の街路で区切った町割を定めた。日本橋・江戸橋などを架け、日本橋を起点とする五街道に通じる市内の道路も整備した。

 坂や台地など、江戸市中に多くの富士山の眺望点が点在した。富士山を江戸の一部ととらえる感覚のあらわれを代表するものとして「江戸一目図屏風」や「江戸絵図」があり、実景より大きな富士山を江戸の風景となじませ一体感のある絵図としている。葛飾北斎の「富嶽三十六景」,「富嶽百景」や安藤広重の「名所江戸百景」などにも江戸市中、江戸近郊からの富士景が多数ある。


江戸一目図屏風

江戸市中からの富士景 (名所江戸百景より)
するがてふ 水道橋駿河台 神田紺屋町

「江戸東京学事典」(小木新造他編,三省堂,1987)の「坂」の記載によると,坂道の名称が地図や記録に現れてくるのは17世紀後半のことである。江戸府内に約300の名のある坂があり,富士見坂の名が18箇所あったと記載されている。

富士は江戸の町人の信仰の対象となり、富士講という庶民の宗教が生まれた。 富士へ行けない町人たちが、お山にあやかりたいと集まり、各地に 富士塚が築かれた。 富士塚は富士講が守り、祭礼を行って維持してきた。


  「名所江戸百景」の日暮里諏訪の台
諏訪台は東に筑波、西に富士のパノラマ眺望点であった。 図の山は筑波山である。
日暮里諏訪台は、上野と飛鳥山のほぼ中間に位置し、上野台地上で最もその幅が狭い場所である。縄文前期から弥生・古墳時代にまたがる土器が出土し、また弥生前・中期時代の竪穴住居跡も見つかっている。

享保年間(1716〜36年)には「日暮里」の地名が書かれているが、元々の新堀村に、この地が「景色や草木を眺めあかして日が暮るるを知らず」というほどの美しい風景を持っていたところから当て字をして名付けられたと言われている。

江戸時代後期、世の中が安定し、人々の暮らしにも余裕がでてきた頃には物見遊山が流行し、上野の山から諏訪台、道灌山、さらに飛鳥山へと続く上野台地は、雪見、月見、花見、富士見、虫聴きなどで有名な江戸期最高の行楽散策空間となった。「江戸名所図会」には「日暮里惣図」、「道灌山聴蟲」などが描かれている。

青雲寺は四季折々に花が咲くことから、花見寺とも呼ばれた。寺の東北には、崖下まで入り海であった頃に船を繋いだ松の木があったという。
現在の富士見坂は修性院と法光寺の間にある坂道である。 富士見坂を登った正面は、ほぼ諏訪台の中心部にあたり、諏方神社と浄光寺が並んでいる。
地域の鎮守である諏方神社の起源は古く、元亨年間(1321-1323年)に、豪族豊島左衛門慰経泰(つねやす)が、諏訪湖のほとりの諏方神社を勧請し草創したものである。 文安2年(1445年)には、太田道灌がこの地を江戸の出城として修復して、江戸城の鎮守とした。江戸時代の諏方神社の祭礼は、お御輿を芋洗橋(現在の神田昌平橋)までかついだと伝えられている。すわ神社は諏訪神社と書かれることもあるが、諏方神社が正しい。
浄光寺も同時代の創立とされる。 特に雪の眺めがよいことから、雪見寺とも呼ばれる。
日暮里駅に近いあたりに、月見寺の別名をもつ本行寺がある。太田道灌の嫡孫の大和守資高(すけたか)の開基と伝えられている。江戸時代以前は内海の向こうの千葉県の国府台まで見晴らすことができたというこの地に、道灌は物見塚と呼ばれる見張り台を作った。(これは明治時代になって無くなった。)

現在の諏訪台付近


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